筥崎宮をはじめとした三大八幡宮と呼ばれる神社とは?
八幡宮(はちまんぐう)は、八幡神を祭神とする神社を指し、別名で八幡神社、八幡社、八幡さまなどとも呼ばれます。 日本国内には約44,000社もの八幡宮が存在し、その総本社は大分県宇佐市にある宇佐神宮です。 筥崎宮(はこざきぐう)は福岡県福岡市東区箱崎に、石清水八幡宮は京都府八幡市に位置し、これらの神社は「三大八幡宮」として知られています。
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筥崎宮(はこざきぐう)ってどんな神社なの?
境内の主要な建築物等の施設は次のとおりとなっています。
筥崎宮(はこざきぐう)の本殿、拝殿
筥崎宮(はこざきぐう)の本殿と拝殿は、平安時代中期の貴族藤原雅材(ふじわら の まさき)によって、延喜21年(921年)6月に建立されたとされています。しかし、歴史の中で数度の火災や戦乱による荒廃を経験し、再建が繰り返されました。
特に戦国時代において、戦火と兵乱の影響で荒廃したため、守護大名で戦国大名の大内義隆(おおうち よしたか)が天文15年(1546年)に再建を行いました。
本殿は46坪の広さを持ち、桧皮葺きの流造様式で造られており、左右に縋造車寄が配置されています。拝殿は檜皮葺きの切妻造りで、二重虹梁と蟇股(かえるの形を模した装飾)が特徴です。
筥崎宮(はこざきぐう)の楼門
筥崎宮(はこざきぐう)の楼門は、文禄3年(1594年)に小早川隆景によって建立されました。この楼門は三間一戸の入母屋造りで、扉には桐紋の彫刻が施されています。特筆すべきは、楼門に掲げられた「敵國降伏」の扁額で、これは亀山上皇が奉納した醍醐天皇の宸筆であるとされています。
広瀬淡窓の詩「筑前城下作」において、「伏敵門」はこの楼門を指すものとされており、一般の参拝もこの楼門の下で行われています。この楼門は日本三大楼門の一つとして知られています。
筥崎宮(はこざきぐう)の石造一之鳥居
筥崎宮(はこざきぐう)の石造一之鳥居は、慶長14年(1609年)に黒田長政によって建立されました。この鳥居は特徴的で、柱が3つに切れ、下部が肥り(ふとり)と呼ばれる太くなった部分になっており、台石につながっています。また、笠木(かさぎ)は一つの石材で形成されており、その先端が上に反り上がり、貫(ぬき)と笠木の長さが同じです。
この鳥居に使用されている石材は、長崎県鷹島の特産品である阿翁石です。この鳥居は通称で「筥崎鳥居」とも呼ばれています。
筥崎宮(はこざきぐう)の石燈篭
筥崎宮(はこざきぐう)の石燈篭の中で、特に注目すべきものは、火袋の底に観応元年(1350年)の銘が刻まれているものです。これらの石燈篭は、天正15年(1587年)に茶道の大家である千利休から寄進されたものと言われています。
筥崎宮(はこざきぐう)の神木「筥松」
筥崎宮(はこざきぐう)の神木である「筥松」は、楼門の右手に位置し、朱の玉垣に囲まれた松の木です。
この神木には、神功皇后が応神天皇の誕生時に使用された胞衣(えな)を箱に納めてこの地に安置したという伝説が関連しています。
その胞衣を納めた箱が「筥崎(箱崎)」という名前の由来とされ、この「筥松」はその出来事の印として植えられたものとされています。
神木(しんぼく)とは、古神道において神籬(ひもろぎ)や神体とされる木や森林を指し、神の存在を象徴するものです。また、神の存在や力が宿る場所であり、依り代や神域、結界の役割も果たす木々を指します。このような木々はしばしば「御神木」とも呼ばれ、神聖な存在として尊重されています。
また、神木の種類としては、松、杉、檜(ひのき)などの常緑樹が多く、大木が多いです。
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八幡神社の総本山である宇佐神宮ってどんな神社?
宇佐神宮は、八幡神社の総本山であり、大分県北部、国東半島の根元に位置する御許山(標高647m)の山麓に鎮座しています。
この神社は、本殿が小高い丘陵の小椋山(通称:亀山)の山頂に鎮座する上宮と、その山麓に位置する下宮から成り立っており、周囲には多くの社殿が広がっています。
宇佐神宮の境内は国の史跡に指定され、その本殿3棟は国宝に指定されています。
宇佐神宮は八幡宮の総本社として非常に古くから崇敬を受け、また、称徳天皇時代に起きた宇佐八幡宮神託事件でも知られています。
この神社への参拝は一般的な方法と異なり、特別な作法が行われます。参拝者は二度拝み、四度手を叩き、再び一度拝むという儀式を守ることが求められています。
上宮本殿 (一之御殿、国宝)
上宮本殿(一之御殿)は、八幡造として知られる建築様式を採用し、前後に連なる2つの切妻造平入(ひらいり)の建物から成り立っています。
この建物は、奥殿と前殿に分かれており、奥殿は「内院」と呼ばれ、祭神の夜の座所である御帳台が置かれています。一方、前殿は「外院」として知られ、昼の座所とされる御椅子が配置されています。
一之御殿は、万延元年(1860年)に建立され、その後、安政6年(1859年)に建てられた二之御殿と、文久元年(1861年)に建立された三之御殿とともに国宝に指定されています。
下宮(御炊宮(みやけみや) )
宇佐神宮の下宮(御炊宮、みやけみや)は、宇佐神宮の表参道が東に向きを変える場所で、上宮への参道から少し離れた位置にあります。下宮は、弘仁年間(810-824)に上宮の三神を分霊して建立されたと言われています。
宇佐神宮下宮参道
宇佐神宮の下宮参道は、上宮と同じ三神を祭祀しており、上宮の構成をより簡素にしたものです。
この下宮の本殿は、回廊の中に横に並んでおり、向かって左から応神天皇(八幡大神)、比賣大神、神功皇后をそれぞれ祀っています。また、一之御殿には応神天皇を祀る際に、相殿には大神比義が祭られています。
下宮の本殿は、上宮のように二棟連結型(八幡造り)ではなく、単棟の構造を持っています。
西大門 (さいだいもん)
西大門(さいだいもん)は、文禄時代(1592年 - 1596年ごろ)に建造されたとされており、その様式は安土桃山時代に特有のものです。
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石清水八幡宮ってどんな神社?
石清水八幡宮は、平安時代前期の貞観年間に、大安寺の僧である行教によって宇佐神宮から勧請された神社です。この神社は京都の南南西に位置する男山(通称:鳩ヶ峰、標高143メートル)の山上に鎮座しています。
創建年については、『元享釋書』や『石清水遷座縁起』などでは貞観元年(859年)とされていますが、『類聚国史』などでは貞観2年(860年)とも言われています。行教は貞観元年に宇佐八幡宮で八幡大菩薩からのお告げを受け、これを朝廷に報告し、清和天皇の命を受けて貞観2年に八幡造りの社殿が建設されたと言われています。
石清水八幡宮は、平安京においては鬼門を守護する延暦寺に対抗し、南西側の裏鬼門を守護する神社として位置づけられました。八幡神を氏神とする源氏の崇敬を受け、特に源義家は7歳の時に当社で元服し、「八幡太郎義家」と名乗りました。そのため、武神として信仰され、源氏の広まりとともに多くの八幡宮が勧請されています。
石清水八幡宮は当初から宮寺形式を採り、境内にある神宮寺である護国寺と結びつき、紀氏一統という僧行教の系統からの要職が長らく守りました。境内には多くの堂宇が建ち、山麓も壮大でした。
しかし、幕末から明治維新にかけて神仏分離の影響を受け、仏式の施設は排除され、仏堂や仏塔が取り扱われなくなりました。また、仏式で行われていた放生会も「石清水祭」と改名されましたが、今でもこの祭りは大祭として、葵祭や春日祭とともに日本三大勅祭の1つとして親しまれています。
2012年に官報告示により、境内は国の史跡に指定され、上院と下院と呼ばれる山上と山麓の部分から成り立っています。また、本社の10棟の建物は国宝に指定されています。この石清水八幡宮は「やわたのはちまんさん」と親しまれ、多くの人々に愛されています。
筥崎宮をはじめとした三大八幡宮と呼ばれる神社とは?のまとめ
「三大八幡宮」として知られる神社は、福岡県福岡市東区にある筥崎宮、大分県宇佐市にある宇佐神宮、そして京都府八幡市にある石清水八幡宮の三社を指します。これらの神社は、日本各地に存在する八幡宮(八幡神を祭神とする神社)の中でも特に格式が高く、歴史的な重要性を持っています。
筥崎宮は、福岡市に位置し、その神社は日本最古の八幡宮とされています。宇佐神宮は大分県にあり、八幡宮の総本社で、国東半島にあります。石清水八幡宮は京都府にあり、清和天皇の時代に建立された歴史ある神社です。
これらの三大八幡宮は、八幡神を祭神とし、日本の武士や戦国時代の武将たちによって崇敬され、武運を祈願する場として重要な役割を果たしました。また、それぞれの神社には独自の歴史や伝説が結びついており、祭りや行事も豊富です。
これらの神社は、日本の歴史や文化において重要な存在であり、多くの参拝者や観光客が訪れ、日本の伝統と信仰の一端を示すものとして知られています。
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